看護どっと合言葉  > 看護師〜ひと〜  > No.10 水戸済生会総合病院 疋田 直子 さん
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<看護師〜ひと〜>  特別便
【寄稿】  四川大地震の後、国際緊急援助隊として中国での体験記
水戸済生会総合病院

国際緊急援助隊/助産師
疋田 直子 さん
普段は、取材してお話を伺って記事にしている<看護師〜ひと〜>ですが、今回、特別便として四川大地震のあと、 国際緊急援助隊として御活躍された疋田さんに体験談を寄せていただきました。 実際に経験することはもちろん、その体験談もなかなか聞く機会はありません。現地を想像しながら読んでみてください。
―国際緊急援助隊とは?―
国際緊急援助隊は、海外の地域における大規模な災害に対し、国際緊急援助活動を行うことを目的としています。
国際緊急援助隊は、医療チーム、救助チーム、専門家チーム、自衛隊部隊に分類され、医療チームは被災地域での医療活動(防疫活動を含む)を行い、 救助チームは要救助者の捜索や救助を行います。専門家チームは被災規模の拡大の防止や災害復旧のための支援活動を行います。 医療チームはボランティアベースで登録されている方々を派遣しますが、救助チームは警察・消防・海上保安庁の人員を、専門家チームは関係する省庁や政府関係機関などからの人材を派遣します。
国際緊急援助 JICA(ジャイカ)のホームページはコチラ
―体験談―
 5月12日に発生した四川省大地震に対する医療支援活動を行うため、国際緊急援助隊医療チームのメンバーとして、 5月20日〜6月2日までの2週間、中国四川省成都市に派遣されました。私にとって、海外で医療活動を行うのは初めての経験であり、 未知なるものに対する不安と、日本の代表としての派遣であることに対するプレッシャーがありました。

 私が国際緊急援助隊医療チーム派遣の連絡を受けたのは、前日の5月19日午後8時過ぎでした。 「参加可能な方は、午後10時までに電話にてご連絡願います。」その後すぐに職場である水戸済生会総合病院へ勤務調整のお願いの電話をし、JICAへ参加可能である連絡をしました。 そして、午後11時過ぎ、私が派遣メンバーに選ばれた電話連絡を受けました。
 「登録したばかりの私が、今回なぜメンバーに選ばれたのだろう?」連絡を受けてからずっと、その疑問が頭の中にありました。そして、派遣前日の夜は、不安と期待で眠れませんでした。
私が国際緊急援助隊医療チームへ登録したのは、今年の2月でした。2007年5月にアメリカ留学から帰国し、 その後すぐに国際緊急援助隊の登録に必要な書類を取り寄せ、仮登録、導入研修を経て、本登録が完了したのが2月でした。

 5月20日夕刻、成田空港での結団式の後、チャーター機で四川省成都市に向かい、現地のホテルに着いたのは夜中でした。 翌日21日は、活動場所を決めるため成都市内の病院を視察し、22日から四川大学華西病院での活動が開始しました。
 本来の国際緊急援助隊の活動形態は、被災地近くにテントを張り、野営病院形式の医療活動を行いますが、 今回は中国側の要請もあり、被災地近くではなく、被災地から離れた大学病院内での活動となりました。 私は助産師ということもあり、産科のある四川大学華西第二病院で活動を行いました。

 産科病棟はいくつかに分かれており、私は被災者の集まる病棟で活動を行いました。 その病棟では、被災者が持ち込む感染症を予防するため、ガウン、マスク、シューズカバーの着用が義務付けられていました。 臨時の病棟であるその病棟には、クーラーなどの設備はなく、気温30度を超す中での活動は、かなりきつかったです。 私の通訳をしてくれたボランティアの大学生は、その暑さのため、気分が悪くなってしまうこともありました。
また、本来病棟として使われている場所ではないため、ナースコールはなく、酸素等の中央パイピング設備もありませんでした。

 被災者の妊婦・褥婦のほとんどは、地震で家もお金もすべて失ってしまい、着ている服も赤ちゃんのミルクもオムツも、すべて寄付でいただいた物でした。 また、退院後帰る家もなく、タクシーに乗るお金すらなく、どうしたらよいのか悩みを打ち明けられたこともありました。 みんなそれぞれにたくさんの悩みを抱えながらも、それでも、「家族が無事だったから」といつも明るく振る舞っている彼女たちの姿に、何度も胸が締め付けられる思いがしました。

 病院では、被災者の入院費用はすべて無料になっており、帰る家がない方には、病院の敷地内に数日間宿泊できる施設(とはいっても、ただの小さなテントですが)を用意してありました。 また、家に帰る交通手段のない方には、病院の救急車で送り届けるということもしていました。被災者の妊婦・褥婦から相談を持ちかけられるたびに、病院のスタッフに彼女たちの悩みを伝え、 できるだけの協力をするようにしました。しかし、私にできることには限度があり、はたして彼女たちの力になれたのかどうかはわかりません。

 中国では、ほとんどが帝王切開分娩のため、出産に立ち会うことはできませんでしたが、出産後の授乳指導や乳房ケアを主に行いました。 家もお金も物もすべて失ってしまった彼女たちにとって、母乳で育児をすることは、粉ミルクを買う経済的負担を減らし、哺乳瓶の消毒をする手間・設備・物品を省くことができると考えたためです。 しかし、帝王切開後5日目で退院してしまうことから、母乳育児が確立する前に退院してしまうことが多く、十分なケアができたとは思っていません。 どういったケアが本当は必要だったのか、また、他にどういうことができたのか、考えていくことが今後の課題だと思っています。

 実際の医療活動は10日間と短く、私一人の力では、大したこともできなかったと思っています。 しかし、毎日のように「ありがとう」という感謝の言葉をたくさんの方からいただき、その言葉に逆に私が励まされ、活動することができました。 本当に感謝しています。
 最後に、今回の地震で被災され亡くなられた方のご冥福をお祈りすると共に、被災地の一日も早い復興を心よりお祈りいたします。
【編集後記】
 関東で生まれ育った私は、大きな地震は全く経験していません。そのほかの災害も皆無です。 よってニュースなどでは見聞きしますが、実際の災害の現場の想像力は乏しいものがありますが、 それでもこの体験談を聞いて「災害援助」の必要性が伝わりました。当然、現地での救助活動は大事です。 しかし、災害が起こったからと言って予定されていた出産が遅れるわけではありません。 普通に出産するだけでも大変なのに、災害が加われば誰だってパニックとなることでしょう。 疋田さんは、「大したことができなかった」と言っていますが、それは強い責任感がそう言わせるのであって 実際に「ありがとう」という言葉をいただけるということはそれだけ感謝されていたということですよね。 留学して見聞を広め、自分の活躍の場を世界に求める。かっこいいですよね。災害は無いにこしたことはありません。 しかし、残念ながら次の災害は必ず来ます。大変かとは思いますが、助産師として、国際災害援助隊としての疋田さんの更なる御活躍を期待します。あおやぎ
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